近年、小売業界をはじめ多くの企業で顧客体験(CX)改善が重要テーマとして語られてきました。しかし、CX向上のための投資が進む中、調査結果によるとCX評価の伸び悩み(低下傾向)が示されています。
今回は、顧客満足とロイヤルティ向上の鍵となる新概念「シグナル・モーメント(Signal Moment)」を捉えるため、自律型AI「エージェンティック AI」に投資し、顧客評価を得ている先進企業の取り組みを紹介します。
CXの停滞を打破する新概念「シグナル・モーメント」
顧客体験(CX)の改善のため、多くの企業で店舗改装・アプリ導入・O2O(Online to Offline)施策・CRMの深化などさまざまな投資が行われていますが、世界的経営コンサル企業であるKPMGによる最新の調査では、アメリカの消費者が評価するCXスコアは4年前と比べて横ばいまたは低下傾向にあるという結果が報告されています。
これは、単に便利さを追求するだけの施策では顧客満足やロイヤルティは向上しにくいということを表されています。こうした背景から、近年ではシグナル・モーメント(Signal Moment)という新たな発想が注目されています。
顧客の微かな兆しを捉える自律型AI「エージェンティック AI」
このシグナル・モーメントとは、顧客の行動や生活の中に現れる“微かな変化の兆し”を捉え、価値ある提案につなげるタイミングのことで、このシグナル・モーメントを捉えるには、購買行動・デジタル行動・ライフイベントなど多様なデータを統合し、次におこすべきアクションへとつなげることが必要ということです。
KPMGによると、そのためのテクノロジーとして、分析のみではなく、顧客の意図を理解し、能動的な対応が可能なエージェンティックAI(Agentic AI)の活用が不可欠だということです。このAgentic AIとは、従来のAIが特定の質問に答えたり、データを分析したりする受動的ツールなのに対し、自発的に目標を設定し、自ら情報を収集・分析し、課題を解決する能動的なAIのことです。
<ランキング> 顧客評価で高いスコアを得ている企業10社
このAgentic AIに投資し、シグナル・モーメントを含めたCX戦略を実施し顧客評価で高いスコアを得ている企業10社を、KPMG Customer Experience Excellence企業として選びました。選ばれた10社は以下の通りです。
◆2025-26 KPMG Customer Experience Excellence
| 順位 | 企業名 | 業態 |
|---|---|---|
| 1 | エイチ・イー・バット(H-E-B) | 食品小売り |
| 2 | エドワード・ジョーンズ(Edward Jones) | 資産運用・投資アドバイス |
| 3 | USAA(United Services Automobile Association) | 金融・保険 |
| 4 | パタゴニア(Patagonia) | アウトドア衣料 |
| 5 | コストコ(Costco Wholesale) | 会員制食品小売り |
| 6 | チック・フィレ(Chick-fil-A) | ファストフード |
| 7 | ネイビー・フェデラル・ユニオン(Navy Federal Union) | 金融サービス |
| 8 | テキサス・ロードハウス(Texas Roadhouse) | レストラン |
| 9 | エル・エル・ビーン(L.L.Bean) | アウトドア用品 |
| 10 | イン・アンド・アウト・バーガー(In-N-Out Burger) | ファストフード |
CXの競争軸は「便利さ」から「兆し(シグナル)」の速報性へ
このランキングで注目すべきは、食品小売り(H-E-B,Costco)、飲食(Chick-fil-A,In-N-Out Burger)、アウトドア(Patagonia,L.L.Bean)、金融(Edward Jones,USAA,Navy Federal Union)といった異なる業種が混在している点で、顧客体験に優れたブランドは、業種の壁を越えて共通の戦略要素を持っていることが報告されています。
Agentic AIの導入は、人を不要にするものではなく、AIによる気づき(シグナル・モーメント)と人によるハイブリッドな顧客対応を、いかに最適化させるかが鍵ということです。よりプレミアムな顧客体験の競争軸は、便利さやデジタル化だけでなく、顧客の「兆し」を速やかに捉える戦略に移行しているということで、シグナル・モーメントの考え方は、その象徴とされます。
全米1位「H-E-B」に学ぶ、データで“売れる理由”を先読みする技術
KPMGのレポートによると、今回選ばれた10社は、共通してAgentic AIを使って顧客の小さな行動や状況の変化(シグナル・モーメント)をリアルタイムに察知し、価値ある対応につなげているということです。
今回トップにランクされた食品小売りチェーン大手のエイチ・イー・バット(H-E-B)は、テキサス州というローカル色の強い市場や、天候(猛暑・寒波・ハリケーン等)、地元のイベントや祝日など、さまざまなデータをAgentic AIにより最適化し、店舗ごとに適切な商品の仕入れや在庫につなげています。
また、シグナル・モーメントを検知することで、リアルタイムに顧客別にパーソナライズした商品提案を行っています。例えば、ある地域でスポーツイベントがある場合には、試合前・試合中・試合後で別々の購買予測を行い、それに合わせた商品仕入れを実施して、売り上げ増につなげています。
KPMGによると、H-E-Bは売り上げを見るのではなく、売り上げが動いた理由を複数のデータで判断し先回りして動くことに優れている企業ということです。
次の一歩を踏み出すための、真の「顧客中心主義」とは
顧客体験という言葉が一般化する一方で、その実態は企業ごとに大きな差が生まれています。今回紹介した米国トップ企業に共通するのは、顧客を「セグメント」ではなく「変化し続ける存在」として捉えている点です。
シグナル・モーメントという視点は、華やかなAI活用事例というよりも、日々の売場運営や商品提案の精度を一段引き上げるための、極めて実務的な考え方と言えます。日本の小売業が次の一歩を考える上でも、示唆の多い取り組みではないでしょうか。